2010年07月05日
曳山の飾り付け 博多の熱い夏
いよいよ本格的になってきた
この時期は 博多にいる事が多い もちろん 宿泊は界音 そして 夜は「メンバーズ志保」へ
夜の話はまた
曳山の飾り付け 今年の表題は「威風震十方 いふうじっぽうにふるう」



お顔が出てくる瞬間
ゾクッとする
神様への畏敬なのか
伝統への畏怖なのか
それとも これから始まる行事へのワクワクなのか
きっとすべてを引っ括めてのゾクッだろう
この時期は 博多にいる事が多い もちろん 宿泊は界音 そして 夜は「メンバーズ志保」へ
夜の話はまた
曳山の飾り付け 今年の表題は「威風震十方 いふうじっぽうにふるう」
お顔が出てくる瞬間
ゾクッとする
神様への畏敬なのか
伝統への畏怖なのか
それとも これから始まる行事へのワクワクなのか
きっとすべてを引っ括めてのゾクッだろう
2010年02月01日
博多祝い唄 東流 下東町
博多祇園山笠
博多祝い唄です
参加させていただいている
東流 下東町の初寄に参加した際の音源で作りました
忘年会の音源 残念ながら 録れませんでした
総代を始め
諸先輩がたに
町内は
家族だからと言っていただき
お祭りのない地域に生まれた私としては
感動の連続です
2009年11月09日
博多灯明フェスタ
博多の秋の風物詩
灯明フェスタへ
花善カー(バイスクル)を借りて
回ったが 回りきれないほど大規模だった

ホークスの絵は 博多高等学校

櫛田神社は 黒田武士

大浜小学校は 亀
亀
題材的に行かなくていいかなと思ったのだが
行くとビックリ こんなキレイな亀になるんだと関心した
そして 地元の音楽専門学校の学生によるコンサートが実施されていた
ゴスペルを初めて生で聞いたのだが 体が震えてしまった

大浜小学校前にある公民館では
県内の灯明の様子がパネルで紹介されていた
残念ながら 飯塚の灯明の展示がなかった
一度持ち込んでみようかなと思った
一度フォーマットをもらいに行こう

今年 お世話になった 坂野上田村麻呂を鎮座していた
JRのウオーキング
九電のライトアップなど 博多を挙げてこの祭を盛り上げている
推進会議の形を取っているようだが
この協議会の運営方法もかなり興味がある
様子を君管でもアップ
学生達が中島みゆきの「糸」を歌っていたので
バックミュージックは「糸」にしてみた
灯明フェスタへ
花善カー(バイスクル)を借りて
回ったが 回りきれないほど大規模だった
ホークスの絵は 博多高等学校
櫛田神社は 黒田武士
大浜小学校は 亀
亀
題材的に行かなくていいかなと思ったのだが
行くとビックリ こんなキレイな亀になるんだと関心した
そして 地元の音楽専門学校の学生によるコンサートが実施されていた
ゴスペルを初めて生で聞いたのだが 体が震えてしまった
大浜小学校前にある公民館では
県内の灯明の様子がパネルで紹介されていた
残念ながら 飯塚の灯明の展示がなかった
一度持ち込んでみようかなと思った
一度フォーマットをもらいに行こう
今年 お世話になった 坂野上田村麻呂を鎮座していた
JRのウオーキング
九電のライトアップなど 博多を挙げてこの祭を盛り上げている
推進会議の形を取っているようだが
この協議会の運営方法もかなり興味がある
様子を君管でもアップ
学生達が中島みゆきの「糸」を歌っていたので
バックミュージックは「糸」にしてみた
2009年10月18日
灯明ウオッチング バスに揺られながら 博多の歴史を考察
博多の秋の風物詩
灯明ウオッチングへ
町内行事の
お手伝いに
また バス停一個先の 町内へ
つくづく 山笠の町割り 流の形成
中世日本の統一の為に作られたものだが
良くできた制度だ
温故知新ということばが思い浮かぶが
伝統の中で常に新しいものを取り入れている
奴の国が 約2,000年前
博多伝統と言われる 山笠 700年前
太閤町割りは 400年前
こう考えると 山笠の歴史は 新しいものしれない
そして 灯明の歴史がまちづくりとして 始まっている
熱き思いの共有×行動の連鎖×知の連鎖
ここにも
方程式が成立している
灯明ウオッチングの詳細はこちら
2009年09月29日
町内清掃
日曜日

町内清掃に参加した
遠いね!
と言われたが
実は バス停 一個
卸商団地の次は 蔵本だ!
ただ、バス停 一個分だけ 歩こうと言われても
ちょっと 出来ない
山笠がキッカケで
町内会に入れてもらえたのだが
入ってみて
秀吉の太閤町割で生まれたといわれる 山笠の”流れ”
それらを構成する 各町内
よく出来たシステムだと感じる
明治以来 中央集権システムにおいて
東京から遠く離れた 博多が強いエネルギーを放っているのは
この 流を作ったシステムが根幹にあるかもしれないと思いながら
一升瓶を抱え
バス停一個分の距離を帰路についた

町内清掃に参加した
遠いね!
と言われたが
実は バス停 一個
卸商団地の次は 蔵本だ!
ただ、バス停 一個分だけ 歩こうと言われても
ちょっと 出来ない
山笠がキッカケで
町内会に入れてもらえたのだが
入ってみて
秀吉の太閤町割で生まれたといわれる 山笠の”流れ”
それらを構成する 各町内
よく出来たシステムだと感じる
明治以来 中央集権システムにおいて
東京から遠く離れた 博多が強いエネルギーを放っているのは
この 流を作ったシステムが根幹にあるかもしれないと思いながら
一升瓶を抱え
バス停一個分の距離を帰路についた
2009年07月22日
世紀の天体ショー 日食
日食 福岡でも見れた
この写真 ○東町内 S田先輩からの送られてきたものだ!
もしかすると 著作権侵害
すぐに削除しますので その際はご一報をお願いします
噂では
皆既日食が見れる
奄美大島 市役所の働きかけで
この天体ショー
日曜日にうつす予定があるようだ
市役所の働きかけで 皆既日食を移動させれたら
それこそ 人類はじまって以来のビックニュースになる
ちなみに奄美ではこんな具合になる予定だ!
iPhoneから送信
2009年07月13日
清道旗 博多山笠の歴史を学ぶ
追い山ならしの前に
櫛田神社にお参りした


この清道旗
参加させてもらっている
町内 「下東町」が奉納しているという話を聞いて見に行った
歴史のある町だと なんとなくブルッとした
なんと 嘉永元(1848)年奉納だ
またひとつ山笠の歴史を学んだ
山笠の公式HP(こちら)
によると
以下
追い山のコースには三つの清道旗が立てられている。いずれも各流の舁き山笠が回るので、見物のポイントでもある。
最初の旗は櫛田神社の清道にあり、“櫛田入り”のタイム(所要時間)はこの旗を巧く回るかどうかに左右される。もともと、何もなかったが、各流の回る位置が微妙に異なり、紛議にもなるため、嘉永元(1848)年、旧下東町の提案し、採用された。今も旧下東町が管理、祭りが始まると立てる。
二つ目が東長寺、三つ目が承天寺の前。東長寺は明治初めの神仏の分離まで櫛田神社を統治しており、承天寺は博多祇園山笠の発祥と深い関係にある。江戸時代を通して現在と同じように門前まで舁き入れていたが、明治26(1893)年、ここも正式清道とし、土俵で支える「清道旗」を立てて各流が回ることを義務づけた。
櫛田神社にお参りした
この清道旗
参加させてもらっている
町内 「下東町」が奉納しているという話を聞いて見に行った
歴史のある町だと なんとなくブルッとした
なんと 嘉永元(1848)年奉納だ
またひとつ山笠の歴史を学んだ
山笠の公式HP(こちら)
によると
以下
追い山のコースには三つの清道旗が立てられている。いずれも各流の舁き山笠が回るので、見物のポイントでもある。
最初の旗は櫛田神社の清道にあり、“櫛田入り”のタイム(所要時間)はこの旗を巧く回るかどうかに左右される。もともと、何もなかったが、各流の回る位置が微妙に異なり、紛議にもなるため、嘉永元(1848)年、旧下東町の提案し、採用された。今も旧下東町が管理、祭りが始まると立てる。
二つ目が東長寺、三つ目が承天寺の前。東長寺は明治初めの神仏の分離まで櫛田神社を統治しており、承天寺は博多祇園山笠の発祥と深い関係にある。江戸時代を通して現在と同じように門前まで舁き入れていたが、明治26(1893)年、ここも正式清道とし、土俵で支える「清道旗」を立てて各流が回ることを義務づけた。
2009年07月12日
一番山笠 千手乃光照丈夫 山笠で歴史を学ぶ
やっと カメラに収める事ができました
神様の写真をとって良いかちょっと躊躇しました
たぶんこれは撮って良いのじゃないかなと思い パシリ


千手乃光とは 天照大神の光
丈夫(もののふ)とは この坂野上田村麻呂の事である
勉強不足であるが
田村麻呂 征夷大将軍という事以外は知らなかった
教科書の記述のみでその他の事は知らない
伝説ではあの清水寺を寄進したとの事
日本の歴史をちょっと勉強をしないといけないと思った
ちなみに下記は ウイキペディアの記述
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官である。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。
中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。
父は坂上苅田麻呂で、坂上氏は田村麻呂の祖父の犬養、と苅田麻呂ともに武をもって知られた。妻は三善清継の娘高子。
子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。
神様の写真をとって良いかちょっと躊躇しました
たぶんこれは撮って良いのじゃないかなと思い パシリ
千手乃光とは 天照大神の光
丈夫(もののふ)とは この坂野上田村麻呂の事である
勉強不足であるが
田村麻呂 征夷大将軍という事以外は知らなかった
教科書の記述のみでその他の事は知らない
伝説ではあの清水寺を寄進したとの事
日本の歴史をちょっと勉強をしないといけないと思った
ちなみに下記は ウイキペディアの記述
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官である。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。
中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。
父は坂上苅田麻呂で、坂上氏は田村麻呂の祖父の犬養、と苅田麻呂ともに武をもって知られた。妻は三善清継の娘高子。
子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。
2009年07月09日
山笠の準備 宿泊は ゲストハウス 界音


山笠 本格的に準備だ
平成会 全会長のT野先輩から
応援団のT先輩も東流れじゃないかなと
早速 メール
東流とのこと
田川ではなく 博多でお会いできる おもしろい縁である
宿泊は 廻り止め側
ゲストハウス 界音
ドミトリー 2,500円(1泊)
ラッキーなことに予約が取れた http://www.kaine-g.com/
夜は、おいしい釜たまうどんの予定
前回のブログはこちら
近くには あの美味しい 韓国料理が
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